明治時代の文明開化により、西洋文化が入ってきたことで当時の人が受けた衝撃

江戸から明治へと変わり、文明開化によって西洋文化が一気に入ってきた時期、人々は見たこともない機械や文化に翻弄されました。

現代の私たちにとって当たり前の「電気」や「鉄道」、「郵便」も、当時の人々にとっては理解の範疇を超えた未知の存在。あるものは「魔術や妖術」と恐れられ、あるものは「神様」と崇められました。

今回は、あまりのカルチャーショックに当時の日本人が受けた衝撃のエピソードの数々をご紹介します。

気球を見た明治時代の人の衝撃

明治時代が始まった時点で、空を飛ぶ道具として気球がありました。

気球は1783年(天明3年)にヨーロッパで発明されたものです。ヨーロッパでは既に遊覧飛行、冒険飛行が行われていましたが、明治時代が始まった時点で、日本人には全く馴染みがないものでした。

そんな中、日本でも、1877年(明治10年)には、東京・築地の海軍省の施設で気球の研究が開始されました。

施設内であれば、研究者たちだけですから驚きは少ないでしょう。

しかし、施設外に、気球が飛んでいってしまったら、空を飛ぶという概念すらない当時の庶民はパニックになってしまいます。

ある時、気球が突風にあおられて、遠方へと飛んでいってしまいました。

気球が落下したのは、漁村でした。

今でも気球が落下してきたら驚くと思いますが、当時の庶民の驚きはなおさらです。

漁村の人たちは、「風神様が袋を落とした」と大騒ぎしたそうです。

灯りに衝撃を受けた明治時代の人々

明治以前の灯りと言えば、ロウソクや菜種油です。

1872年(明治5年)に横浜でガス灯が点いたときは、今で言えば、15ワット程しかないのに、その明るさに人々は驚いたと言われています。

更に、1882年(明治15年)には、東京銀座でアーク燈が点灯されました。

アーク燈とは、電極に2本の炭素棒を用いて両極間にアーク放電による発光を生じさせる光源のことです。

人々は、その明るさを一目見ようと押し寄せて黒山の人だかりができるほどでした。

しかし、いざアーク燈が点灯されると、あまりの眩しさに卒倒する人が続出しました。

今でも、テレビで激しいフラッシュ光線が明滅すると視聴者がめまいを起こしたり倒れてしまうこと(光過敏性発作、ポケモンショック等)がありますが、それと似たような現象が、アーク燈の光によって起きてしまったということです。

なお、電灯が一般家庭に普及し始めるのは、明治30年頃になってからです。

当時の人達は、ロウソクやガス灯と電灯の違いがよく分かっていませんでした。

そこで、電力会社が電灯を普及させるために宣伝文句としたのが、「電灯は風に強い」というものでした。

ロウソクやガス灯は風に当たれば、消えてしまいます。

ロウソクやガス灯を灯すときは、障子を閉め切って、風が入らないようにする必要があったのです。

そこで、電力会社は、障子を開け放ったままにして、風が吹き抜ける状態でも、電灯は消えませんということをアピールしました。

当時の人達には、画期的な技術として驚きを持って受け入れられたと言われています。

余談ですが、電灯が普及し始めてから、家庭内では、掃除を真剣に行う人が増えました。ロウソクやガス灯の明かりだけでは目立たなかった汚れが、あまりに明るい電灯によって目に付くようになったためと言われています。

電信線の迷信に踊らされた人々

1869年(明治2年)に、東京と横浜の間で電報用の電信線が架設されました。

一瞬で情報を遠くに送ってしまうその電信線に、当時の人々は畏怖し「キリシタンの魔術や妖術」だと恐れていました。

電信線には、処女の生血が塗ってあるので魔術や妖術のような力が宿っているといった迷信がまことしやかに囁かれて、娘を持つ親たちは処女狩りが行われると恐れたと言われています。

さらには、電信線の下を通ると呪われるという噂も流れて避けたり、呪われないようにするには、電信線の下を歩く時に扇子を頭上にかざす必要があるという対策が本気で講じられていたこともありました。

恐怖に駆られた人の中には、電信線を勝手に切断する人もいました。

その対策として、電信線が切断されないように監視する役も設けられて、陣笠に紋付きの羽織袴姿で、馬に乗って巡回していました。

電信線が切断された場合は、彼らが、馬を走らせて電報の内容を届けていたたようです。

一方で、好奇心のある人たちは、「電報が電信線を通過する瞬間」を見学しようとして集まったり、物を吊るせば、瞬時に遠くに運べると信じて、弁当箱を電信線に吊るしていた人もいたそうです。

もっとも電信線はその後、瞬く間に全国に広がり、わずか10年後には日本全国の主要都市が電信線で結ばれ、電報を各地に瞬時に送ることができるようになりました。

郵便ポストをトイレと勘違いしてしまった明治人

1871年(明治4年)に郵便制度が発足すると同時に、町中に現在の郵便ポストに当たる「郵便箱」が設置されるようになりました。

しかし、「郵便箱」を初めてみた人の中には、「垂便箱」だと誤読する人もいたそうです。

そのように誤読した人の中には、実際に「郵便箱」の中に放尿してしまう人もいました。

ただ、そのように誤解したのも無理のない話なのです。

実は、当時、ところ構わず立ち小便をする日本人に対して欧米の外国人からは、野蛮人といった冷ややかな目を向けられていました。

そこで、明治政府は、公衆トイレを普及させようとしていました。

それを知っていた人の中には、これが公衆トイレ——「垂便箱」なのかと勘違いして用を足してしまったということです。

郵便ポストは当初、脚付の台に四角い箱をのせた木製のものでした。

初期はあまり活用されず、そのまま朽ちたり、内部にクモの巣が張ってしまうことも多かったようです。

1901年(明治34年)になると、鉄製の赤い円柱形の郵便ポスト(丸型ポスト)が設置されるようになりました。

この頃には流石に郵便ポストを「垂便箱」と勘違いする人はいなくなり、丸型ポストが全国各地に設置されるようになりました。

蒸気機関車を拝む明治人

これまで人々の移動手段と言えば、馬か舟でしたが、1872年(明治5年)には、早くも、新橋〜横浜間で鉄道が開通しました。

しかし、真っ黒な車体から煙を吐き出し、地響きを立てて走る機関車の姿に衝撃を受け、火を噴く黒い化け物として畏怖しました。

中には、機関車を神や霊獣の類だと思い、線路にお賽銭や米、お酒を供えて拝む人もいたそうです。

当然ながら、こうした行為は鉄道の運行を妨げる行為なので、線路への立ち入りを厳しく禁止するお触れが出されましたが、やはり、初めて、蒸気機関車を見た人々は拝まずにいられない心境だったようです。

余談ですが、当時、列車に乗る際は、履物を脱ぐのが習わしでした。

そのため、乗車した駅のホームに草履や下駄を置き去りにしてしまい、下車する駅で裸足になってしまったという笑い話も残っています。

まとめ

こうして振り返ってみると、明治時代の人々がいかに凄まじい「変化の渦」の中にいたかが分かります。

これらの「衝撃」を一つひとつ乗り越え、驚きを好奇心に変えて受け入れてきたからこそ、わずか数十年で日本は近代化を成し遂げることができました。

私たちが今、当たり前のようにスマホを使い、新幹線に乗っている日常も、明治の人々が目を白黒させながら切り開いてくれた「驚きの連続」の先にあるものなのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です